久しぶりに夜更かしをした。
今日が虎の誕生日だったから。夜少しお酒を飲んで、なんとなくいつまでもベッドの中で言葉を交わして、日付が変わる頃に「誕生日だね」とキスをした。鼻先をくすぐりあいながら柔らかく唇を押し付けあって。

そのまま眠りについて、朝、一足先に起きた僕は部屋中のカーテンを開けて光を取り込んだ。冬の終わりきらない冷えた朝。けれど春の空気をこっそり孕んだ風に気付き無意識に頬が緩む。
顔を洗って着替えを済ませ、エプロンをつけてケトルのスイッチを入れる。昨夜仕込んでおいたフレンチトーストを冷蔵庫から取り出したところで、虎の寝室のドアが開いた。寝癖をつけた部屋の主が、まだ半分眠っているような目で僕を見つけてゆっくり歩み寄る。

「おはよう」

「...はよ」

「まだ寝てていいのに」

「...ん、」

「ふふ、誕生日おめでとう」

背中にぺたりと体を乗せてきた虎に顔を傾け、その顎に唇を寄せる。一瞬ちくりと髭の気配を感じる。挨拶のキスだ。
もう、誕生日おめでとうも生まれてきてくれありがとうも、伝えている。虎は軽く目を細めて僕の額にキスのお返しを落としてから洗面所へ向かった。その隙にコンロに乗せたフライパンへたっぷりのバターを落とす。目がくらむようなその匂いを肺いっぱいに吸い込んでから、卵液の染み込んだパンを泳がせる。本当に、溶けたバターで泳いでいるみたいな光景を確認してからコーヒーの準備に移る。そのタイミングでリビングに戻ってきた虎は、もうしっかり覚醒していた。

「コーヒー?」

「紅茶がいい?」

「コーヒー」

「カフェオレも出来るよ」

「…カフェオレ」

「ふふ、じゃあ用意するからちょっと待ってて」

「フレンチトーストは」

「焼き目ついてる?」

フライパンを覗き込んだ虎は手際よくパンをひっくり返し、再び僕の背中に体を寄せた。後ろから回された腕が腰からお腹へ、撫でるように巻きついた。そのくすぐったさに上がった肩に虎の口元が擦れる。

「待ってて」

「待ってるけど」

「今日はそういう日なんだ」

「はあ?」

「ううん、ふふ、今日は虎の誕生日だからね、どうぞ好きにして」

「なんだそれ」

不機嫌そうに、けれど上機嫌に笑いながら頬に軽いキスをくれた虎が大人しくダイニングテーブルに移動した。焼き上がったフレンチトーストに粉糖をまぶし、たっぷりのミルクと砂糖を溶かしたカフェオレを添える。自分のマグカップにはブラックコーヒーを。二人でいただきますと手を合わせ、虎の誕生日の一日がスタートした。

午前中は買い物とケーキの受け取り。
一人でいくつもりだったけれど、虎が一緒に行ってくれると言うから二人で部屋を出ることにした。

「あれ、その靴履く?」

「もう履いたけど、何?」

「ううん、僕も同じの履こうと思ってたから」

お揃いだねと笑いながら、同じブランドの同じようなデザインの同じような色の靴を足元に出す。お揃いではないけれど、同じようなものだ。ひと足さきに紐を絞めた虎が横にずれてくれてその横に腰を下ろす。キッチンから漏れたフレンチトーストの甘くて気持ちのいい匂いが廊下にほんのりと滲み、いつまでもいい匂いを届けている。

「よし、行こっか」

きゅっと、足元で一度靴をならす。
虎はそれを確認してから少し背中を丸めて僕と視線を合わせた。もう微睡はなく、いつもの格好いい虎だ。顔を洗って歯を磨いて髪を整えて。日を重ねても変わらず僕をどきりとさせる虎の整った顔が、唇を寄せる。唇と唇が触れ、一緒に部屋を出るのに行ってきますのキスをした。一緒に出るのになんだかおかしいなと、おかしいけれど嬉しくて、畳んだマイバックを握りしめたまま虎の背中に縋る。
少し物足りないくらいの柔らかなキスに名残惜しさを抱きながら、それでもまずは買い物に、最低限ケーキだけは受け取りに行きたいからと期待に上がった熱を押し込める。じんわりとお腹の奥が熱くなるのを隠し、僕らは肩をならべて部屋を出た。

予定通り日用品の買い物をして、食材の買い足しもして、最後にケーキを受け取った。ケーキを潰さないよう丁寧に持ち帰り、食後のデザートに食べようねと冷蔵庫へしまう。それからスーパーで見つけたホタルイカと菜の花で、春の訪れを感じるようパスタを作った。少し硬めが好きな虎に合わせたアルデンテの麺。春の陽気にはまだ少し足りないけれど、それでも十分に温かな陽射しが差し込む部屋に、心地のいい幸せな匂いが立ち込める。食後のケーキは美味しい盛りのいちごがたくさん使われた4号のホールケーキ。それもぺろりとたいらげ、夕食の焼肉までにお腹を空かせないとねと言いながら、結局ソファーで肩を寄せ合って映画を見た。
誕生日だからと、旅行に行ったり特別に買い物に行ったり、あれを食べようこれをしようとたくさん計画を立てたり。背伸びをしたレストランを予約したり、下手くそなサプライズをしたり。思い返せばもう何度、お互いのその日を祝いあっただろう。特別な日だから特別に何かをしたい。特別な日を、なんでもないいつも通りの幸せな日にしたい。歳を重ねて一緒に過ごす時間を重ねて。そんな風に、過ごし方の選択肢を増やしてきた。

「トムって格好いいよね」

「そうだな」

「奇跡みたいな60歳だね」

映画の中で激しいアクションをこなす海外の俳優を見つめながら、自分がその歳になったらと想像してみる。けれど残念ながら、そんなに格好いい自分はもちろん浮かぶことはなく。それでも虎は彼に負けないくらい格好いい60歳になりそうで、なんだか誇らしくなった。擦れる肩に頭を寄せて「60歳になってもこうやって映画見れるかな」と呟いた僕に、虎は「見れるだろ」となんでもないことのように返事をくれた。

「いいね、楽しみ」

「まだ先」

「うん、そのずっと先の約束をしてくれたのも嬉しい」

「なんだそれ」

「嬉しいよ。ありがとう」

幸せにするからねと冗談めかして笑った瞬間、虎は僕の顎を掬って唇に噛み付いた。
乾いた唇の、覚えきった感触と温度に目を伏せて自分の意思で、しっかり顎を上げる。めまいがしそうな甘いキスと、食いちぎられそうな激しいキスのちょうど中間みたいな、覚えたてみたいな、そんなキスを受け入れて虎の首に腕を回す。

「一回止めよう」

「今?」

「今、だって、集中出来そうにない」

「はいはい」

虎の操作で動きを止められた画面は、俳優の整った顔を静止画にして無音となった。

「とら、」

「ん」

「ふふ、甘いね」

「歯磨きしたけど」

「でも甘いよ」

そのあまい、虎のキスが好きだ。愛しい。
抱きしめられながら心地のいい圧力に身を委ね、背中をソファに沈める。それに合わせて小さく音を立てたソファも、もう何年も僕らと一緒に過ごしている。






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